KAI FACT magazine
HISTORY OF KAI vol.10
FACT  No.11

エッジマークで
新たな一歩を踏み出す。

1955年生まれの遠藤宏治が貝印グループの三代目社長に就任したのは、89年。33歳の時だった。改めて、彼の生い立ちと経歴を駆け足で振り返ってみる。
幼少期、父とキャッチボールこそしなかったものの、忙しかった父・二代目斉治朗は、社員旅行や得意先との接待などに度々、宏治を連れて行った。小学校ではボーイスカウト、中学ではバスケットボールに熱中。高校に入るとクラブ活動はせずに勉強に打ち込み、学業は優秀。早稲田大学政治経済学部に現役で進学した。学費値上げ闘争の最中で大学にはあまり行けなかったが、当時、2つの大切な出会いがあった。ひとつは妻となる女性との出会い(82年に結婚)。もうひとつは交換留学先のカリフォルニア。この時の印象が強烈で、大学卒業後にもさらに2年留学することになった。そして帰国後の80年3月に三和刃物に入社、翌4月からはコクヨに出向。営業マンを2年経験し、貝印グループに戻り、関市で勤めてから、87年に東京本社に配属となる。

宏治が社長就任前に手掛けた仕事の中で特筆すべきプロジェクトが、CIの導入であった。プロジェクトの協力者が「SONY」のロゴマークやウォークマンの生みの親で、ソニーのクリエイティブ本部長・黒木靖夫だったことは前号の通りだが、なぜ黒木だったのかには、意外なエピソードがある。ある日、「愛用している黄色のヤングTを行きつけの店が置かなくなり困っている」という主旨の苦情が届く。その主にヤングTを送るとお礼の手紙が届いたのだが、その人こそが黒木だった。その頃、CI導入に取り組もうとしていた宏治が思い立ち、黒木を訪ねたというわけだ。K、A、Iの3文字を組み合わせた現在の「KAIエッジマーク」は、黒木の原案を元に約3ヶ月をかけて考案された。3文字をそれぞれ同じ面積にすることにしたのは宏治と社内デザイナーのアイデア。また、色はコーポレートカラーとして「清潔」「さわやかさ」を表すブルーに。決定後、50人のプロジェクトチームで運用・展開方法を1年かけて議論したのち、88年、各地域で行った創業80周年の式典で社員や得意先、仕入先などにも披露された。カミソリの「シェルマーク」、家庭用品の「kaicut貝印刃物マーク」と別々だった目印が統一され、グループとしての経営力の強化を目指す新たな一歩となった。

翌年、宏治は貝印グループとして、「世界デザイン博覧会NAGOYA89」に参加している。開催の1年前からコンペティション形式でハサミのデザイン画を募り、世界30か国2516点の中から59点の入賞作、全ての試作品を作って展示。これはコストや効率というメーカーが陥りがちな発想を超えた試みとなり、新たなマークは世界に発信され、今の貝印の礎を築いた。


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