バンドにアルバイト……
たくさんの出会いに
刺激を受けた日々
高校の頃は学校の先生に憧れていました。
そのために教育学部のある大学を受験したのですが、いずれも不合格。やむなく浪人することになりました。
浪人時代に改めて、自分は将来何をしたいのか真剣に考えました。その結果、学校の教師は思いの外、門が狭いということが分かり、もっと幅広く就職先の企業が選べるよう、地元・岐阜にある岐阜大学工学部電気電子工学科に進むことにしたのです。
大学では、勉学そっちのけでとにかく自由奔放に過ごしました。学生生活で中心になったのは、サークル活動とアルバイトです。
サークルはバンドサークルに所属。ヴォーカルとギターを担当し、J-POPや洋楽をコピーしていました。
アルバイトは、焼き鳥屋さんを選びました。特に「これをやりたい!」という希望はなく、家の近所に新しくオープンした焼き鳥屋さんに面接に行ったら「明日から来て」と言われたので始めた、という感じです。そのまま5年ほど続けました。
サークル活動にせよ、バイトにせよ、そこで出会った人たちは、出身も、育ちも、年齢も違う人たちでした。彼らとの交流は私の人生において今でも刺激を受ける大切なものになりました。
貝印入社の決め手は
面接で感じた居心地のよさ
大学生だった私が就職を意識し始めたのは、4年生になる直前の2月くらいのことです。今から考えれば、あり得ないほど遅いスタートでした。
当時は、勢いのあったIT産業を目指していました。また、父親が電子機器の基盤を作る仕事をしていたこともあり、それと似たような仕事を探していました。何をやりたいかというより、何を作っている会社か、を中心に探していたのです。
4年生にあがると、周囲の友人が次々に内定を取り始め、さすがに焦り始めました。本格的にきちんと探さなきゃな、と思っていた矢先に出会ったのが貝印でした。
当時、貝印の名前は知っていたのですが、具体的に何を作っている会社なのかはよく分かっていませんでした。しかし、不思議と面接が進むにつれ、貝印への興味がわいてきました。内定をもらった頃には、すっかり「この会社で働いてみたい!」という気持ちになっていました。何を作っているかとか、世界一のシェアを誇っているとか、そういったことよりも、面接を担当してくれた人たちの雰囲気がよく、いつしか貝印に対する居心地のよさのようなものを感じたことが、決め手となりました。
入社後の初仕事は
プログラミングを独学で学ぶこと
入社後、3カ月は研修期間でした。7月に入ると辞令が出て本配属となるのが慣例でしたが、私の場合は少し違いました。研修中の6月最終週に製造部長に呼ばれ、「プログラミングができるか?」と尋ねられたのです。大学の授業で経験があったので「はい」と答えると、私の配属先が研究部門に決定しました。
私が初めて手掛けることになった仕事は、製品の評価をするための試験機のプログラミングです。それまで使っていた試験機が古くなっていたこともあり、自社で作ることになったのです。学生時代に学んだ経験を活かせると思っていましたが、学生のときに学んでいたプログラミング言語ではありませんでした。その上、パソコンでモータを動かしたり、荷重を拾って画面に表示させたりするなど、まるで経験のないことばかり。こうなると、イチから学ばなければなりませんでした。
周りに分かる人もいませんでしたから、インターネットを駆使しながら、独学でプログラミングを覚えていきました。そうして試行錯誤した結果、最初に取り掛かった試験機のプログラムを完成させるのに、3カ月もかかってしまいました。その後も、ただモータを動かすだけでなく、社内ネットワークを駆使した動きだったり、生産設備と繋げたりと要求がどんどん高くなっていきましたが、必死に食らいついていったのを覚えています。