KAI FACT magazine
HISTORY OF KAI vol.9
FACT  No.10

父子二代での
黄綬褒章受章の栄誉。

「今後はオリジナルな製品を作る」という二代目斉治朗の決意で、1958年より新企画部長のもと、新製品開発が推進された。しかも「最低3ヶ月に1品は新製品を!」との二代目の意向で、東京藝術大学のデザイン科にアイデア出しやデザインを頼むという新しい試みもなされた。結果、製品の種類が格段に増えたため、美粧用品、家庭用品、DIYと、扱う製品を3部門に分けて、さらなる開発を行うことに。市場の拡大とともに、1966年には国内鋼材に代わり、スウェーデンのステンレス鋼を輸入。10億円を投じて生産ラインを一新し、製造の自動化を英断した。

また、斉治朗はPRにも力を注ぎ、定番商品とは別に、消費者の関心を引く話題商品(花火商品)も開発。1982年の組み立て式カミソリ「ナンダ」、87年の音が流れる「メロディハサミ」などの革新的な商品が話題になった。83年には、小屋名工場近くの閑静な住宅地に、遠藤夫妻の住居「思遠庵」が完成する。ホテルや工場でなく、経営者の家へ招かれるとより親交が深まる と、海外視察の際にヒントを得て、内外の賓客を迎える迎賓館を兼ねるものとした。ここではゲストに最高のもてなしをしたいと、茶室に名品を揃え、妻の久子が茶を振る舞った。また思遠庵は、社員行事や会議にも使用されている。これも、社員を思いやり、きずなを大切にする考えからだ。斉治朗は思遠庵での交流以外に、社員を海外慰安旅行などへも連れて行った。創業80周年を迎えた88年には、生産部門300余名、販売部門300余名の大部隊が2チームに分かれて香港へ。創業100周年でのハワイ旅行は、5回目の海外社員旅行となった。

1985年。貝印の歴史に残る輝かしい出来事があった。軽便カミソリの発明考案により、国内で初めて、親子二代で黄綬褒章を受章する。斉治朗はここでも「全社員のおかげである」と、一般的には著名人らを招いて開かれる受章パーティの代わりに、全社員を招いた祝賀会を催した。

ところで、前述の通り、斉治朗はPRにも注力したが、そのひとつに貝印ブランドを広めるための CI(コーポレート・アイデンティティ)の導入がある。これを担ったのが、息子であり三代目、現在のKAIグループ社長の遠藤宏治だ。宏治はソニーのクリエイティブ本部長・黒木靖夫の協力を得て、当時一般的でなかったCIを約1年半にわたり研究し、検討を重ね、ロゴやパッケージなどを一新。88年、KAIエッジマークを採用し、社名を「貝印」(販売部門)とした。その仕事ぶりに安堵したかのように、翌年、斉治朗は家族に見守られて息を引き取った。享年64歳。「日本のカミソリ王」と呼ばれた二代目の先見性、変革への挑戦は今に引き継がれている。


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